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阪神淡路大震災から17年。 [DIARY]

震災当事、私は関西で学生をしていたので、震災の体験者です。それほど、大きな被害があったわけではありませんが。

地震の当日は、早朝まで大学で作業をしていて、地震発生の数十分前に下宿の安アパートに帰宅したところを、震災に襲われました。私が住んでいたのは大阪の北西部で、兵庫県との県境にも近いところ。大阪府内では唯一、災害区域に指定された地域です。神戸の大惨事ほどではありませんが、室内の家具は殆どひっくり返りました。倒れた本棚がベッドを直撃していましたし、怪我をしなかったのは、本当に運が良かったと思います。錯覚かもしれませんが、建物が歪むように揺れるのをスローモーションの様な感じで知覚していました。

その時、私が必死でやったのは、スタンドからスピーカーを無事に降ろす事でした。オーディオラックは、直前に低く組み直していたので奇跡的に無事。

地震直後に停電。直ぐに実家に電話して早朝にたたき起こされ、事態の判っていない両親に無事を伝えましたが、すぐに電話も繋がらなくなりました。

TVもひっくり返ってしまい、アンテナケーブルが抜けてしまいました。今の様な携帯電話によるネットワークも一般的では無い時代。震災直後は、外部から情報が入ってこなかったので、震源地も地震規模も判りませんでした。死者数について等、まったく想像もできず、荷物などの下敷きになった人が数人程度… くらいに考えていました。

余震が怖いので、朝方まで外で過ごしました。古いアパートで風呂の種火が外にあるタイプの設備なので、火災を恐れてアパート中の種火を消したり、殆ど面識のない両隣の部屋の住人に声をかけたり。自然と近くの空き地に人が集まり、当時の掛り付けのお医者さんと話をしながら、日が昇り、停電が回復するのを待っていました。

その後、疲労もあり、TVをなおす気力も、大学に出かける気力も無く、研究室に無事を連絡し夕方まで横になっていました。夕刊で初めて震源地等の情報を知りました。死者の数(夕刊で1000、夕方のTVニュースで2000)には驚くと同時に恐怖を感じました。最終的な被害者数は、皆さん、ご存知のとおりです。

政府の災害対応や危機管理能力は、当時手に入れられた情報だけで考えてもお粗末なものでした。あの火災の状況をみると、災害直後に自衛隊が出動していたら。と、思わずには居られません。(勿論、彼らも全能ではないので、全ての状況を改善出来たわけではないでしょうが)

当時の私の通学路は国道171号線という道路で、私は原付を利用して移動していました。これは、京都~大阪北部~兵庫県につながる道路です。震災後も適切な交通規制がなされてない為、震災後の神戸市内に物資を送るトラックと、物見遊山で兵庫に向かう“ばか者達”のせいで、暫くの間、大変な渋滞が続いていました。然るべき交通規制が入ったのは、1週間以上経ってからでした。

震災の割と直後、用事があって、数日間、関西からは離れた実家に帰っています。それまで非常に生々しい震災の体験が、離れた土地でテレビの画面を通すと、映画の1シーンの様な他人事に見えてしまった事に、我ながら驚きました。当時、関西圏から離れた土地に住んでいた人の感覚は、そういったものかもしれませんし、それは人の心理として仕方の無いことだと思います。



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